青い海と空のみちのく八戸から・波動はるかに 第10回80―80(エイティ-エイティ)

 さて、“戦腹中派”である私のケースは、戦時の直接的影響は避けえたとしても、この昭和の戦争に翻弄され、振り返れば実生活の変遷はもちろん、精神の持ち方にも生涯最大の決定的影響を与えたに違いない。だが、親たちの不遇な人生に想えば枝葉ではある。私の誕生時、父親は既に国家により比島に派遣され不在、そのまま遺棄(と言ってもいいと思う)された。生死情報は戦争終結後3年経た1948年(昭和23年)年4月の戦死公報で確定。その報を受けると、母親は婚家に見切りをつけ実家に身を寄せる。母親の口からこぼれる独り言か、私に向けての言か3「3年と8ヵ月」「7ヵ月」という月日を幾度となく耳にした記憶が残っている。子供時代のことなので何を意味するかその時は訳が分からなかったが、やがて、前者は母が父と伴に過ごした蜜月の時間、後者は夫が戦場に連れ去られた時点での私の腹中月齢ということを理解した。また「ハルシ(私の名前)はとうちゃ(父親の呼称、母親はかあちゃと呼んだ)のことさっぱり聞かないねエ」と呟くように言う母親を思い出す。その通り、私にとって父親は軍に入隊した時と思われる唯一の写真以外には全く手掛かりのない幻であった。ところが60年余の後、嫁入りした姉夫婦宛に書かれた手紙13通が叔母の遺品から見つかった。それらに記された送り先からは軍招集直後(1934/12)の国内の部隊名もの1通、満州派遣軍4通、いったん除隊(1936/12)して自宅からのもの2通、再度の招集(1937/8)上海派遣軍・中支派遣軍(部隊名)4通というものであった。初期の手紙には満州の寒さを訴え、防寒対策や上官にゴマする物のおねだりなど、20歳の若者の甘えや母親との結婚の希望が見える。中国戦線からの手紙は時期からも南京事件等の現場にいたと考えられ、中国大陸の奥深く迄進軍している。1941年12月にようやく除隊になるのだが厳しい疲労感が伝わってくる。私の兄は1942年4月生まれ、婚姻届けは同年1月となっているが、結婚までの様子は不明。

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